「そうじゃない」人のための物語 『もういちど生まれる』

 自分には、何かしらの能力が秘められていると思っていた。今はまだ開花しておらず、いつかそのときが来るのだと。
 漠然と、しかしどこか確信めいた気持ちでそう思いながら人生を歩んできた。そう思っていられた最後の時期が、大学生として過ごした4年間だった。
 卒業してからもう5年以上経つというのにら未だに私は何者にもなれないままでいる。代わりのいる存在、同じような日々を過ごす存在、そんなものは私の目指したものじゃなかったはずなのに。いつか特別な光が「その他大勢」の中に埋もれた私を見つけてスポットライトを当ててくれるのだと、固く、固く、そう信じていた。でもそうじゃなかった。私もまた、「そうじゃない」人のひとりでしかなかったのだ。
 だから、ということもあって、朝井リョウさんの作品に今まで手を出せずにいた。読んでしまったら、私は自分が「そうじゃない」人のひとりであると認めることと同義だと、そんな気がしていた。私と彼は同世代で、多少の時期のズレはあれども同じ環境にいたのだから。「そうじゃない」人ではない彼の作品を読むことは、自分が「そうじゃない」ことを意識せざるを得ないことだった。自意識過剰といえばそれまでだけれど、私の中では崩したくない砂の砦だった。
 そんな朝井リョウさんの、「そうじゃない」人たちの物語が『もういちど生まれる』だ。

 

もういちど生まれる (幻冬舎文庫)

もういちど生まれる (幻冬舎文庫)

 

 

 19歳から20歳くらいの若者たち(主に大学生)の、「そうじゃない」日々が描かれている。輝かない毎日、代わり映えしない日常、月曜と火曜と水曜と木曜と金曜が過ぎて土曜と日曜を終えてまた月曜を迎えるだけの日々。読んでいて、とても「覚えがある」と思った。彼らの胸に浮かぶ焦りや諦め、向かう場所のない怒りや恨み、漠然とした不安やふいに襲うつらさ、わかる、わかる。
 なんてつらい作品なのだろう。あまりのつらさに、一気に読み終えるしかなかった。彼らの行く先が知りたかったのもあるが、何よりこの痛みを長続きさせたくなかった。見て見ぬ振りをして置き去りにしてきたはずの感情が、過去からどっと押し寄せてくる。振り返ることができない。ページをめくる手を止めずに進み続けるしかなかった。
 特につらかったのは最後に収録されている「破りたかったもののすべて」。ダンスの専門学校に通う女の子の話だ。過去にもらった賞賛が忘れられなくて、狭い世界で言われた「すごい」という言葉を勘違いし続けながら勘違いし続けていることに気付いている彼女を、滑稽だとも哀れだとも思えなかった。ただ、わかるよ、と思った。きっと共感されたくない、これは自分だけの気持ちなんだと思いたいであろうところまで、わかる。わかってしまう。必死に言い訳を探したり、自分を納得させようとしたり、無様なくらいに焦ったり。限界が見えているのに見えないふりをしたり、周りにいるすごい人たちの努力も見ないふりをしたり。でも、「ふり」だけで本当は自分が一番わかっている。救われても救われなくてもきっと彼女は生きていかなければならない。命をかけたつもりだったのに、そんなの全然かかってない。わかるよ、わかるよ、わかるよしか言いたくないくらいわかる。身に覚えのある人は是非読んで、私と一緒につらい思いをしましょう。

 作中の若者たちが気づくように、繰り返しのような日々は「のような」だけで繰り返しではない。ループする日常なんてない。月曜と火曜と水曜と木曜と金曜が過ぎて土曜と日曜を終えてまた月曜を迎える、を50回ちょっとで1年になる。同じような日々でも、繰り返すことなく進み続ける。時間は不可逆だ。期限は迫り、モラトリアムは終わる。「そうじゃない」人のまま、「そうじゃない」人生を生きていく。
 でも、「そうじゃない」人にも物語はある。華やかさも鮮やかさも美しいカタルシスもないくせに、盛り上がりや見せ場にも欠けるくせに、確かに物語がある。平凡でいいじゃないか、「そうじゃない」人生でいいじゃないか、とはどうしても思えない。だから今もまだ、「そうじゃない」人生のなかで、小さく戦いを続けている。繰り返しのような日々は決して繰り返してなどいないともう知っているから、目を背けずに前を向いて、「そうじゃない」人だとしても昨日よりマシな自分でいられるように、小さな戦いを続けていきたい。

 私が朝井リョウさんの作品を読もうと思ったのも、そんな小さな戦いのひとつだ。今まで読んでこなかった作家の作品を読むこと、自分で選ぶと偏りがでるので誰かのオススメを素直に受け止めて読んでみること。そうすることで、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない。自分の糧となるかもしれない。成長できる何かが、「そうじゃない」人から何者かになるための何かがあるかもしれない。私はそれを掴み取りたい。少なくとも何もしないよりはいいだろう。

 「そうじゃない」人ではない人が書いた「そうじゃない」人たちの物語にこんなにも心を動かされてしんどい思いをすることにどんな意味があるのかわからない。でも、このしんどさの先、ずっとずっと先には何かがあるような気がしている。
 「そうじゃない」人である私は、「そうじゃない」と自覚しながらもまだ足掻き続けている。