「誰かが何かに抱く愛おしい想い」が愛おしい 『ネオカル日和』辻村深月

 作者と作品は切り離して考える、という考え方がある。切り離して考えるのであれば、作者のことはなるべく知らないほうがいい。そう思って、頭の固い私は長いこと「小説家のエッセイ」を読まずにいた。
 だが、加藤シゲアキという「最初からその人となりをある程度把握している小説家」に出会った。そして彼が書くエッセイに関しては嬉々として読んでいることに気付き、まぁ作者は作者だし作品は作品だけど、その作者じゃないと生まれない作品ってあるもんね、考え方を知りたいって思っちゃうこともあるよね、と思って好きな小説家のエッセイも読んでみよう、というキャンペーンを個人的に展開している。
 まだ数冊しか読めていないが、どれも小説同様に面白かった。森見登美彦さんの『美女と竹林』はエッセイなのに三人称で書かれていて(もうこの時点で面白くて引き込まれてしまう)、どこからが登美彦氏の妄想なのかよくわからないような文章で狐狸に化かされている感もあって楽しかった。森博嗣さんの『つぼやきのテリーヌ』は、なるほどこういった考え方の人からあの作品たちが生まれるんだ……と納得した。どちらもタイプが大きく異なるエッセイだが、どちらも楽しめた。
 で。今回取り上げるのは辻村深月さんの『ネオカル日和』。

 

 

ネオカル日和 (講談社文庫)

ネオカル日和 (講談社文庫)

 

 

(Amazonより引用)

小学生の頃、図書室で出会った本の記憶。夏休み、訪れた田舎で出会った古い土蔵。放課後、友達と買い食いした駄菓子屋。すべてはこの世の物語を紡ぐために。日本の新文化を徹底取材したルポを中心に著者が本当に好きな物だけを詰め込んだエッセイ集。掌編&短編小説4本も特別収録する贅沢すぎる玉手箱

 

 電車の中で読んでいて、何度も泣きそうになった。さすがに電車の中なのでこらえたが、家だったらぼろぼろ泣いていたと思う。何がそんなに胸を打ったのかというと、辻村さんの『ドラえもん』および藤子作品への想いだ。
 私は特にドラえもんに対する思い入れはないというか、世間一般の人々がドラえもんに触れてきたように、子供の頃は毎週アニメを見て春には映画に行って、という小学生時代を送った。それ以降は特に触れてこなかった。なので、ドラえもんのなんたるかをわかっていて辻村さんの想いに泣かされているのではない。「辻村さんがドラえもんに抱く愛おしい想い」にぐっときてしまったのだ。
 文章の端々から、この人は『ドラえもん』を含む藤子作品に触れて育ち、幾度となく救われ、大事に抱えながらこの文章を書いたその日までを生きてきたのだろうと感じられる。そしてこの文章を書いたあとも、そうやって愛していくのだろう、と。
 本の中に語られた言葉は一部分でしかなく、きっとこの何倍もその愛しさを語ることができるのだろう。どれほど救われてきたか。沢山のエピソードがあるに違いない。辻村さんが生きてきた時間のあちこちにドラえもんがいて、どの思い出もきらきらと輝く特別な宝物なのだろうと、想像だけれど確信している。その大切な宝物を、少し見せてもらったような気分だ。

 誰かがそれを好きだという想いは、どうしてこんなにも胸を打つのか。その特別な想いが、その人だけが持ちうる唯一無二のものだからかもしれない。けれど同時に、私にも同じように特別で唯一無二のものがある。そういう「特別で唯一無二」は、ありふれているのだ。ありふれているからといってその特別性が失われるわけではない。相対的に見ればありふれていても、絶対的な価値は失われない。
 誰かが何かに心を震わされたという事実に心を震わされる。共鳴、に似ているのかもしれない。

 ポルノグラフィティのライブビューイングのあれこれを思い出したとき、彼らの書く歌詞について考えたとき、どうしようもなく泣きそうになる。好きで好きで仕方なくて、私が生きてきた日々のそこかしこに彼らの言葉や楽曲があって、何度も助けてもらったし一緒に生きてきた。そういう記憶が、私を支えている。語りつくせないほど大きな想いがある。
 そんなふうに愛せるものがあることって幸せなことだなぁと改めて気づかせてくれるエッセイだった。何か特別に好きなものがある人はきっと、辻村さんが語るドラえもんや藤子作品への想いに心を震わすことでしょう。