グロテスクで美しい愛 『くちなし』彩瀬まる

 『くちなし』は幻想的な短編が多く収められている。体の一部を外して誰かに渡すことができたり、人間(主に女性)が怪物に変身してしまったりする。どれも「愛」についての物語だ。
 愛ってきっと、きれいなだけではない。確かにきれいかもしれないけれど、それは愛のもつ一面にすぎない。それがすべてではない。グロテスクで、醜くて、ときには悪臭すら放ちそうなもの、それもまた愛だ。
 表題作「くちなし」は、主人公の女性と彼女の元不倫相手の妻を中心に描かれている。それだけだったらよくある話かもしれないけれど、この物語の世界では体のパーツを取り外せることが前提となっている。義肢の技術も発達しているし、手足を外したとて血が出たりひどい痛みが伴ったりするわけでもないらしい。さらに、本人から離れた四肢はなんらかの意思をもって動いたりもする。この異様な世界で、物語はすすむ。
 主人公は不倫していた男性から別れを切り出され、別れるかわりに腕がほしいと言う。そうして腕をもらってしばらくして、男性の妻がやってくる。彼女は夫の腕を返せという。そこで主人公は、男性の腕を返すかわりに妻の腕がほしいという。女性は腕を差し出し、代わりに夫の腕を持ち帰る。
 腕を外す描写もだが、主人公が腕と暮らしている描写が、気持ち悪い。だってそれはそのひと本人ではない。腕だけなのに。と思ったけれど、もしかしたらこの「くちなし」と決して遠くはないことを自分もしているのかもしれない、と思った。
 たとえば、アイドルを好きになること。それって、相手(=アイドル)のひとかけらを切り取って自分のものにして大事にしながら共に生活していると、言えてしまうのではないだろうか。なんなら、相手の同意なしに勝手に一部分を切り取っているようなものだから、この主人公よりもたちが悪いかもしれない。
 気持ち悪い行為だなと思う一方で、そうじゃない愛って存在するんだろうか、と思ってしまう。作中で妻は「夫は私のものであり、私は夫のもの」と主張する。それだって、全然、気持ち悪い。誰かを愛するということは、すなわちそういう気持ち悪いことであり、この気持ち悪さは避けられないものなのだろうか。
 「愛のスカート」「茄子とゴーヤ」はこの短編集のなかでは普通の世界の物語として書かれている。しかしどちらも上手く伝わらない愛が描かれていて、愛ってすごく独りよがりなものでもあるんだなと気付く。
 愛って、そういうものなんだと思う。美しいばかりではなくて、グロテスクだったり独りよがりだったりして、でもその一方で美しいことは確かで、そういうものなんだと思う。

 

くちなし

くちなし

 

 

 

 彩瀬まるさんの小説は、「痛い」。
 この『くちなし』に限らず、今まで読んだ本はどれも読みながら「痛い」と思った。とは言っても、彩瀬まるさんの作品に傷つけられているわけではない。作品たちが、心のやわらかな部分に残っている、私が無視し続けてきた傷を、それが傷であると意識させるのだ。ずっと目を向けずにいた傷が、彼女の本を読むと痛み出す。今まで無視してきた痛みが、もう無視できなくなる。本作は「愛」がテーマになっているので、誰かを愛する過程でできた傷を意識せざるを得なくなる。私はあまり恋愛をしてきたわけではないのでそこまで傷がないのかもしれない。様々な恋愛をしてきた人は、私よりもっと痛いのかもしれない。
 『眠れない夜は体を脱いで』は、身体にまつわる短編集で、身体に関する悩みがある(あった)人は今まで見て見ぬふりをしてきた傷に気が付いてしまうだろう。私は特にこの小説を読んで傷の痛みから目が逸らせなくなった。
 『神様のケーキを頬ばるまで』は、さまざまな挫折とそこから立ち直る力が描かれていて、ある意味普遍的な部分も多いので読んでいて自分の傷に気が付く人も多いのではないだろうか。
 『桜の下で待っている』は、家族にまつわる短編集。家族に対してなんらかの思いがある人は、読んでいて痛みを感じるかもしれない。
 そんなふうに、彩瀬まるさんの作品は傷を傷だと認識させる。ここに挙げた以外の作品も、どことなくそんな部分がある。
 私は、それが傷であるということを意識できただけで前進だと思う。痛いことは、決して悪いことばかりではない。後戻りができなくなる状態まで膿んでしまう前に、その傷が傷だと意識できたことは、きっと何か意味がある。
 治そうとしてみることだってできる。治らないかもしれない。治っても傷痕は残るかもしれない。そしたらそのときは、傷も傷痕も抱えていこうと思う。