「小説」を読むことの面白さ 『64』横山秀夫

 私はミステリが好きだが、警察に焦点をあてた小説はあまり読んでこなかった。理由は単純で、組織の仕組みがよくわからないからだ。会社に勤めて6年くらい経つが、どういう肩書がどういう序列で偉いのか未だによくわかっていない。会社に勤める前はもっとわからなかったし、ただの会社ですらこれなのだから、警察なんてわかるわけがないだろうと思っていた。

 が、それをひっくり返すのが「小説」だ。

 わざわざカッコ書きで「小説」というのには意味がある。いま私がいう「小説」とは、物語の面白さをそこに含まないという意味での狭義の「小説」だ。小説の楽しみとは、「物語」の楽しみ(=あらすじの面白さ、ストーリーとしての面白さ)と「小説」の楽しみ(=文章特融の面白さ、文体・書き方の工夫など、一文に限らずある程度のまとまりをもった文章それ自体がもつ面白さ)があわさったものだと私は捉えていて、この『64』にはそのどちらもあるし、とりわけ「小説」の面白さがガンガン来ちゃってやばいのでそのやばさを(この作品が面白いことなんて世間の評価からしても百も承知だろうが)個人的に書き記しておこう、ということです。

 

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

 
64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

 

 

 

あらすじ(Amazonより引用)

 元刑事で一人娘が失踪中のD県警広報官・三上義信。記者クラブと匿名問題で揉める中、“昭和64年”に起きたD県警史上最悪の翔子ちゃん誘拐殺人事件への警察庁長官視察が決定する。だが被害者遺族からは拒絶され、刑事部からは猛反発をくらう。組織と個人の相克を息詰まる緊張感で描き、ミステリ界を席巻した著者の渾身作。

 先ほども書いたが、私は警察という組織の仕組みには明るくない。読み始めた当初も、主人公・三上がどういった立ち位置にいるのか手探りで掴んでいくような状態だった。弊社には「広報」というものが独立して存在しているわけではない(弊社、誰が広報やってんだ。わからん)ので、「広報」というものが余計にイメージしづらかったこともある。しかし、読み進めて割とすぐに警察内部からはあまり良く扱われるポジションではないことが見えてくる。かといってマスコミと良好なわけでもない。板挟みのような状態なのだとわかってくる。

 次に、警察内部の力関係。そこそこの数の登場人物がいるので、一体誰が偉いのか最初はわかりづらい。しかしこれも読んでいくと、今さっき三上が敬語を使っていた人物が別の人物に敬語を使い、時として頭を下げる場面もあり、読み進めるうちに自然と人間関係が把握できるようになっている。説明に徹するような調子で書かれているわけではないのに、自然と理解できる。すごくない?これは私の理解力云々の問題ではなく、作者の頭がいいのだ。

 こういう「読んでいたら人間関係・力関係が自然とわかる」というのはまさしく「小説」の面白さのひとつだ。私がしていることといえば、ただ文字を追っていることだけなのだが、書かれた世界がその行為によって開かれていくのがわかる(実際は作者に誘導されていることのほうが多い)。それってすごく楽しくない?私は楽しい。

 この作品の「小説」の面白さはそれだけではない。私はこの作品のことを下巻の残り1/3くらいまで誤解していた。大きな事件が起こるというよりは、警察内部について(広報という立ち位置と、刑事部との関係について)を描いた作品だと思っていた。実際、派手な事件が起きるというよりは警察内部について主人公が葛藤するような描写が多く、どちらかといえば地味といえよう。そういった地味な小説が(しかし「小説」としてとても面白いので)評価されているのか、と不思議に思う気持ちと嬉しく思う気持ちがあった。が、残る1/3ほどにさしかかったところで物語が急転する。急転するのだが、その急転の仕方もまた「小説」の面白さに満ちている。確かに急転しているのに、それは一見無関係にも思えた今までの描写の積み重ねで出来上がっているのである。あれもこれも全部。全部だ。私が今まで読んできたものが、ここに繋がっている。それもまた「小説」の面白さだ。

 終盤には人間関係もだいぶわかっていて、三上が選んだものがどういう意味を持つのか、心に重たく響く。広報室の人たちの様子を見ていると、仕事に情熱を燃やさないタイプの人間でも熱くなってくる。読み終わって、面白さでなんだか元気になってしまったりした。緊張感のある描写が続くが、読んでいて疲れることもないし読後感も決して悪くない。隙のない小説、という感じだ。

 

 無駄な描写がなく、盛り上がりの運び方も鋭く、しかしそれまでの地味に思える描写も決して退屈ではない。で、「物語」も面白い。そんなの、あんまりにも最高だ。

 「物語」の面白さは私が語っても伝わるかもしれない。しかし「小説」の面白さは読むことでしか伝わらない。なので、まぁ、読んで。それしか言えない。

 

 こんな面白い本を今まで読んでいなかったということは、きっと世の中には私が知らない面白い本が沢山ある。できることなら全部読みたいけれど、それが叶わないならできるだけ多く読みたいなぁ。