グロテスクで美しい愛 『くちなし』彩瀬まる

 『くちなし』は幻想的な短編が多く収められている。体の一部を外して誰かに渡すことができたり、人間(主に女性)が怪物に変身してしまったりする。どれも「愛」についての物語だ。
 愛ってきっと、きれいなだけではない。確かにきれいかもしれないけれど、それは愛のもつ一面にすぎない。それがすべてではない。グロテスクで、醜くて、ときには悪臭すら放ちそうなもの、それもまた愛だ。
 表題作「くちなし」は、主人公の女性と彼女の元不倫相手の妻を中心に描かれている。それだけだったらよくある話かもしれないけれど、この物語の世界では体のパーツを取り外せることが前提となっている。義肢の技術も発達しているし、手足を外したとて血が出たりひどい痛みが伴ったりするわけでもないらしい。さらに、本人から離れた四肢はなんらかの意思をもって動いたりもする。この異様な世界で、物語はすすむ。
 主人公は不倫していた男性から別れを切り出され、別れるかわりに腕がほしいと言う。そうして腕をもらってしばらくして、男性の妻がやってくる。彼女は夫の腕を返せという。そこで主人公は、男性の腕を返すかわりに妻の腕がほしいという。女性は腕を差し出し、代わりに夫の腕を持ち帰る。
 腕を外す描写もだが、主人公が腕と暮らしている描写が、気持ち悪い。だってそれはそのひと本人ではない。腕だけなのに。と思ったけれど、もしかしたらこの「くちなし」と決して遠くはないことを自分もしているのかもしれない、と思った。
 たとえば、アイドルを好きになること。それって、相手(=アイドル)のひとかけらを切り取って自分のものにして大事にしながら共に生活していると、言えてしまうのではないだろうか。なんなら、相手の同意なしに勝手に一部分を切り取っているようなものだから、この主人公よりもたちが悪いかもしれない。
 気持ち悪い行為だなと思う一方で、そうじゃない愛って存在するんだろうか、と思ってしまう。作中で妻は「夫は私のものであり、私は夫のもの」と主張する。それだって、全然、気持ち悪い。誰かを愛するということは、すなわちそういう気持ち悪いことであり、この気持ち悪さは避けられないものなのだろうか。
 「愛のスカート」「茄子とゴーヤ」はこの短編集のなかでは普通の世界の物語として書かれている。しかしどちらも上手く伝わらない愛が描かれていて、愛ってすごく独りよがりなものでもあるんだなと気付く。
 愛って、そういうものなんだと思う。美しいばかりではなくて、グロテスクだったり独りよがりだったりして、でもその一方で美しいことは確かで、そういうものなんだと思う。

 

くちなし

くちなし

 

 

 

 彩瀬まるさんの小説は、「痛い」。
 この『くちなし』に限らず、今まで読んだ本はどれも読みながら「痛い」と思った。とは言っても、彩瀬まるさんの作品に傷つけられているわけではない。作品たちが、心のやわらかな部分に残っている、私が無視し続けてきた傷を、それが傷であると意識させるのだ。ずっと目を向けずにいた傷が、彼女の本を読むと痛み出す。今まで無視してきた痛みが、もう無視できなくなる。本作は「愛」がテーマになっているので、誰かを愛する過程でできた傷を意識せざるを得なくなる。私はあまり恋愛をしてきたわけではないのでそこまで傷がないのかもしれない。様々な恋愛をしてきた人は、私よりもっと痛いのかもしれない。
 『眠れない夜は体を脱いで』は、身体にまつわる短編集で、身体に関する悩みがある(あった)人は今まで見て見ぬふりをしてきた傷に気が付いてしまうだろう。私は特にこの小説を読んで傷の痛みから目が逸らせなくなった。
 『神様のケーキを頬ばるまで』は、さまざまな挫折とそこから立ち直る力が描かれていて、ある意味普遍的な部分も多いので読んでいて自分の傷に気が付く人も多いのではないだろうか。
 『桜の下で待っている』は、家族にまつわる短編集。家族に対してなんらかの思いがある人は、読んでいて痛みを感じるかもしれない。
 そんなふうに、彩瀬まるさんの作品は傷を傷だと認識させる。ここに挙げた以外の作品も、どことなくそんな部分がある。
 私は、それが傷であるということを意識できただけで前進だと思う。痛いことは、決して悪いことばかりではない。後戻りができなくなる状態まで膿んでしまう前に、その傷が傷だと意識できたことは、きっと何か意味がある。
 治そうとしてみることだってできる。治らないかもしれない。治っても傷痕は残るかもしれない。そしたらそのときは、傷も傷痕も抱えていこうと思う。

あなたと幸せになりたいのです 『くたばれ地下アイドル』


 ファンってなんなんだろう、と最近よく考える。
 すごく勝手な存在だと思う。自分がファンであるということについて考えても、どうしたって自分勝手だとしか思えない。勝手に夢を見て、勝手に想像して、勝手に気持ちを推しはかって、勝手に理想を押し付けて。自分ができもしないものを相手に望んだりもする。勝手だなぁ。
 そんな折に、この『くたばれ地下アイドル』を読んだ。さまざまな「アイドル」とその周囲を扱った短編集で、いいなと思う話もあるしそんなに響かない話もある。しかし、なかでもとんでもなく刺さってしまった一編があるので紹介したい。それが現在web上で全文公開されている「寄る辺なくはない私たちの日常にアイドルがあるということ」だ。

 

寄る辺なくはない私たちの日常にアイドルがあるということ――小林早代子 『くたばれ地下アイドル』 | 試し読み | Book Bang -ブックバン-

 

 「寄る辺なくはない私たちの日常にアイドルがあるということ」は、ジャニーズJr的存在である男の子アイドルを推している女性・ちさぱいを主人公とした短編で、彼女とハロー!プロジェクトの研修生的存在の女の子アイドルを推している男性・神谷との会話が見どころとなっている。ちさぱいはあまりお金は使わないタイプのファンで、一方神谷は割とどぼどぼとお金を使うタイプのファンだ。神谷は自分がアイドルにお金を使うことをこう表現する。

 

(前略)初詣で、わけもわからず神に祈ってるのと同じなんですよね。あれって、別に神様のために祈ってるわけじゃないじゃないですか。確かなことはないけど、僕ともにゃにとって何かが好転するはずって祈りをこめてお金を落としてるんですよね。それで祈ったあと、ちょっと気分が良くなれば、僕にとってそれがもう全てなんですよ。もにゃのためじゃなくて、自分のために祈ってるっていうのを忘れないことが、僕の誠実さなのかなって、最近は思うようになったんですよね」

  

 つい先日、握手券もなんらかの応募券もついていないCDを複数買った。初回盤と通常盤を買うという意味ではなく、初回盤も通常盤も何枚かずつ買った。正確に言うと初回盤はAとBがあったのでどちらも何枚かずつ買った。絶対にオリコン1位が欲しかったし、売上の数字も伸びてほしかったから。
 神谷はお金を使うことを「祈り」と言う。私がお金を使うのにもその面はあると思った。沢山祈った。私と私の大好きなアイドルが幸せでありますようにって。
 CDを買ってPOSを通してカウントされるタイプの愛を届けたかった。沢山買うことが偉いわけではないし、沢山買わないといけないわけでもない。ただ、届けたかった。あなたが必要です、どこにもいかないでって、数でその気持ちが届くのなら届けたいと思った。この「届けたい」もある種の祈りなのだろうか。

 ファンとアイドル(とは限らないが、ファンが対象とするもの)って、とても特殊な関係性だと思う。関係性、という言葉で呼べるほどの関係ではないのかもしれない。友達でもないし、恋人でもないし、家族でもないし、知り合いですらない。でも、ファンとアイドルは、一緒に幸せになることができる関係だと思う。思う、というかそう信じたいのかもしれない。かつて、私はアイドルと一緒に幸せを感じたことがあるから。きっとこの先もそういうことが起こりうると、信じている。

 たぶん(というか確実に)、私が今応援しているアイドルが去っていったとしても、私の人生は終わらない。日常は続いていく。彩りを失いながら、それでも日常は続いてしまう。彼らのせいにはしたくないし、しないけれど、でも彩りを失う。
 できるだけ長く、私が見ていられるところにいてほしい。だけどつらい思いはしてほしくない。幸せでいてほしい。できることなら一緒に幸せになりたい。
 あまりにも願うことが多すぎる。私は、やはり自分勝手なファンだ。

 

くたばれ地下アイドル

くたばれ地下アイドル

 

 

「そうじゃない」人のための物語 『もういちど生まれる』

 自分には、何かしらの能力が秘められていると思っていた。今はまだ開花しておらず、いつかそのときが来るのだと。
 漠然と、しかしどこか確信めいた気持ちでそう思いながら人生を歩んできた。そう思っていられた最後の時期が、大学生として過ごした4年間だった。
 卒業してからもう5年以上経つというのにら未だに私は何者にもなれないままでいる。代わりのいる存在、同じような日々を過ごす存在、そんなものは私の目指したものじゃなかったはずなのに。いつか特別な光が「その他大勢」の中に埋もれた私を見つけてスポットライトを当ててくれるのだと、固く、固く、そう信じていた。でもそうじゃなかった。私もまた、「そうじゃない」人のひとりでしかなかったのだ。
 だから、ということもあって、朝井リョウさんの作品に今まで手を出せずにいた。読んでしまったら、私は自分が「そうじゃない」人のひとりであると認めることと同義だと、そんな気がしていた。私と彼は同世代で、多少の時期のズレはあれども同じ環境にいたのだから。「そうじゃない」人ではない彼の作品を読むことは、自分が「そうじゃない」ことを意識せざるを得ないことだった。自意識過剰といえばそれまでだけれど、私の中では崩したくない砂の砦だった。
 そんな朝井リョウさんの、「そうじゃない」人たちの物語が『もういちど生まれる』だ。

 

もういちど生まれる (幻冬舎文庫)

もういちど生まれる (幻冬舎文庫)

 

 

 19歳から20歳くらいの若者たち(主に大学生)の、「そうじゃない」日々が描かれている。輝かない毎日、代わり映えしない日常、月曜と火曜と水曜と木曜と金曜が過ぎて土曜と日曜を終えてまた月曜を迎えるだけの日々。読んでいて、とても「覚えがある」と思った。彼らの胸に浮かぶ焦りや諦め、向かう場所のない怒りや恨み、漠然とした不安やふいに襲うつらさ、わかる、わかる。
 なんてつらい作品なのだろう。あまりのつらさに、一気に読み終えるしかなかった。彼らの行く先が知りたかったのもあるが、何よりこの痛みを長続きさせたくなかった。見て見ぬ振りをして置き去りにしてきたはずの感情が、過去からどっと押し寄せてくる。振り返ることができない。ページをめくる手を止めずに進み続けるしかなかった。
 特につらかったのは最後に収録されている「破りたかったもののすべて」。ダンスの専門学校に通う女の子の話だ。過去にもらった賞賛が忘れられなくて、狭い世界で言われた「すごい」という言葉を勘違いし続けながら勘違いし続けていることに気付いている彼女を、滑稽だとも哀れだとも思えなかった。ただ、わかるよ、と思った。きっと共感されたくない、これは自分だけの気持ちなんだと思いたいであろうところまで、わかる。わかってしまう。必死に言い訳を探したり、自分を納得させようとしたり、無様なくらいに焦ったり。限界が見えているのに見えないふりをしたり、周りにいるすごい人たちの努力も見ないふりをしたり。でも、「ふり」だけで本当は自分が一番わかっている。救われても救われなくてもきっと彼女は生きていかなければならない。命をかけたつもりだったのに、そんなの全然かかってない。わかるよ、わかるよ、わかるよしか言いたくないくらいわかる。身に覚えのある人は是非読んで、私と一緒につらい思いをしましょう。

 作中の若者たちが気づくように、繰り返しのような日々は「のような」だけで繰り返しではない。ループする日常なんてない。月曜と火曜と水曜と木曜と金曜が過ぎて土曜と日曜を終えてまた月曜を迎える、を50回ちょっとで1年になる。同じような日々でも、繰り返すことなく進み続ける。時間は不可逆だ。期限は迫り、モラトリアムは終わる。「そうじゃない」人のまま、「そうじゃない」人生を生きていく。
 でも、「そうじゃない」人にも物語はある。華やかさも鮮やかさも美しいカタルシスもないくせに、盛り上がりや見せ場にも欠けるくせに、確かに物語がある。平凡でいいじゃないか、「そうじゃない」人生でいいじゃないか、とはどうしても思えない。だから今もまだ、「そうじゃない」人生のなかで、小さく戦いを続けている。繰り返しのような日々は決して繰り返してなどいないともう知っているから、目を背けずに前を向いて、「そうじゃない」人だとしても昨日よりマシな自分でいられるように、小さな戦いを続けていきたい。

 私が朝井リョウさんの作品を読もうと思ったのも、そんな小さな戦いのひとつだ。今まで読んでこなかった作家の作品を読むこと、自分で選ぶと偏りがでるので誰かのオススメを素直に受け止めて読んでみること。そうすることで、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない。自分の糧となるかもしれない。成長できる何かが、「そうじゃない」人から何者かになるための何かがあるかもしれない。私はそれを掴み取りたい。少なくとも何もしないよりはいいだろう。

 「そうじゃない」人ではない人が書いた「そうじゃない」人たちの物語にこんなにも心を動かされてしんどい思いをすることにどんな意味があるのかわからない。でも、このしんどさの先、ずっとずっと先には何かがあるような気がしている。
 「そうじゃない」人である私は、「そうじゃない」と自覚しながらもまだ足掻き続けている。

ちょっと怖いものは美しい、危ういものは可愛らしい 『不時着する流星たち』

 話題になった時期に『博士の愛した数式』を読んで以来の小川洋子作品。当時の私は壮大なスケールと疾走するスピード感を読書に求めていたので、『博士の愛した数式』の良さも理解するには至らなかった。今回、小川洋子さんの短編集『不時着する流星たち』を「すごくいい!」と思ったことで、人間って成長するんだなぁと己の変化を感じている。ていうか『博士の愛した数式』を読んだのが中学生のときだから、そりゃあ成長してないと困るよね。

 

不時着する流星たち

不時着する流星たち

 

 

 『不時着する流星たち』は、実在の人物・事象をモチーフにした10の短編が収められている。どれもメジャーな題材とは言い難い(私が知っていたのはエリザベス・テイラーグレン・グールドくらい)。世界のどこかにぽつんと在るモチーフに、作者が手を差し伸べて新たな物語を生み出すような、そんなイメージが浮かんだ。モチーフを知らなければ読めないというわけではないが、読んだ後にモチーフとなった人物や事象を調べると、より物語の世界が体にしみてくる感じがする。

 どの短編も、明るく楽しい、というわけではない。楽しいとか悲しいとか、そういった言葉では言い表せないような気持ちになる物語ばかりだ。寂しさや物悲しさを含んだ短編たちは、その雰囲気を一言で表そうとするなら「ちょっと怖い」に尽きる。決して「優しい」や「あたたかい」では表せない、少し不穏なものが心に渦巻く。けれど、「怖い」と言い切るほどではない。ホラーのような怖さではなく、繊細すぎるがゆえの怖さとでも言うのだろうか。その「ちょっと怖い」は「美しい」でもある。ちょっと怖いからこそ、物語のもつ美しさがより輝く。
 『不時着する流星たち』というタイトルも、短編たちのもつ「ちょっと怖い」と「美しい」雰囲気が表されている。あるいは、不時着という危うい単語と、流星というきらめく可愛らしいイメージ。短編たちのもつ雰囲気が、このタイトルに集約されている。

 最初の短編「誘拐の女王」から心を掴まれた。少女と年の離れた血の繋がらない姉の物語で、少女の目には誘拐経験を語る姉は、そしてその誘拐譚はとても魅力的なものに見えるけれど……という、絶妙に不気味な雰囲気。大人の目から見たら様子がおかしく見える人も、子供の目から見たら妖しく魅力的に映ることもある。
 「カタツムリの結婚式」はこの短編集の中でも明るめの話。世界に散らばっている「同志」を探す少女の話で、自分が選ばれた存在であると信じているところも危うくて可愛らしい。そう、この短編集は「ちょっと怖くて美しい」だけでなく、「危うくて可愛らしい」のだ。
 どの物語に出てくる人たちも、みな繊細すぎるがゆえに世界からはみだしてしまったような人たちばかりだ。繊細すぎるから、鈍感に生きている人たちとは世界の見え方が違う。彼らの物語を見ていると、愛おしくてたまらなくなった。
 他の短編たちも、すっきりするような物語ではなく、心を爪の先でつつつとなぞるような、そんなぞわっとした感じのする物語ばかりだ。決して長い話ではないのに、ひとつひとつの短編に心を持っていかれてしまう。今の季節、心が揺らぎやすい春に読むと、余計に不安定に感じるのかもしれない。決して「楽しい」とは言い切れないけれど、この不安定さもまた読書の醍醐味ではないだろうか。

 また、挿画とフォントと書かれている物語の雰囲気が一体となっている感じがするところも、この作品の美しさの一部を担っている。それぞれの短編のはじめに置かれた挿画は、物語のイメージを細かな線で繊細に描いていて、その繊細さと物語の世界がマッチしている。フォントも、名前はわからないが一般的な小説に使われているものとは違って(「文」の字とかを見ると違いがわかりやすい)、上品で古めかしい雰囲気がこの物語を綴るにふさわしく感じられる。表紙の色合いも含め、挿画もフォントもすべてがこの一冊のもつ美しさを際立たせている。
 ちょっと怖いものは美しい、危ういものは可愛らしい。是非とも手に取って、この美しい本の世界を堪能してほしい。

女の子は、弱くて脆くて強くてかわいい 『王妃の帰還』

 女の子たちの物語が好きだ。

 揺れ動く心を自分では制御しきれない思春期の、どうしようもない衝動。ある人はその衝動をかわいくなることにぶつける。ある人は恋にぶつける。ある人は友情にぶつける。ある人は好きなマンガやアニメについて考えることにぶつける。ある人はアイドルを追いかけることにぶつける。エネルギッシュで手がつけられない彼女たちの物語が好きだ。きっと、かつての私もそういう衝動を抱えていたから。
 中学生だったり高校生だったり、ときには大学生、あるいは社会人のこともある。年齢は関係なしに、そういう衝動をかかえた女性のことを「女の子」と呼びたい。
 桜庭一樹さんの『青年のための読書クラブ』『赤×ピンク』、湊かなえさんの『少女』、辻村深月さんの『盲目的な恋と友情』などが私の思う「女の子」を描いた作品だ。そしてそこに柚木麻子さんの作品も加わった。今回読んだのは『王妃の帰還』。

 

王妃の帰還 (実業之日本社文庫)

王妃の帰還 (実業之日本社文庫)

 

 

 

 お嬢様ばかりが通う私立中学で起きた、クラスの中心にいる子=王妃の権威失墜事件。一番地味なグループが王妃・滝沢さんを受け入れることになったが、という話。主人公・範子たちの地味グループは、面倒な滝沢さんをグループから平和的に出て行ってもらうために、元の座に戻れるように策を巡らせる。
 物語のなかでは、とあるグループにいた子が別のグループに移ったりと、友達になったり決別したりを繰り返す。クラスの勢力図はまたたく間に変わっていく。自分たちの作り出したクラスの渦に、自分たちで翻弄されながら、彼女たちは成長していく。
 成長した彼女たちは、強い。彼女たちを取り巻いていたさまざまな呪いから解き放たれたラストシーンはすごく美しくて、読み終わったときにすっとした気持ちになる。

 決定的に悪い人は、彼女たちの中にはいない。悪い面も良い面もある。ちょっとした気持ちが暴走して、衝動を抑えきれなくて、自分でも歯止めがきかなくなる。でもそれを止めてくれる誰かが出てくる。しかしその子もまた、歯止めがきかない衝動に駆られている。そんな女の子たちを、とても愛おしく思う。かつての私の姿をそこに見るからかもしれない。
 私はグループから外れたところにいる中学生だったし、高校生になってからはグループ(といってもゆるいつながり)同士が互いを尊重しあう関係ができあがっていたので『王妃の帰還』に描かれる世界を具体的には理解できない。けれど、彼女たちが抱えていた思いならなんとなくわかる。私にも覚えのある気持ちが、あちこちに描かれていた。
 たとえば、地味な範子が心のなかで「王妃」と呼ぶ滝沢さんに抱く憧れ。高校生のとき、ほとんど言葉を交わしたこともないおしゃれな女の子が褒めてくれたスニーカーが私の自慢だった。ただでさえかわいいスニーカーだったけれど、彼女が「かわいいね」と言ってくれたことで更にかわいく見えた。
 たとえば、ゴス軍団の黒崎さんたちがヴィジュアル系バンドのメンバーに向ける「好き」という気持ち。バンドが好きで、少ないお小遣いでCDや雑誌を買っていた日々のことを思い出す。中学生のときは語り合える友達はいなかったけれど、どうしようもなくきらきらした気持ちを抱いていた。
 たとえば、つげ義春の漫画をマネして笑い転げる地味グループの子たちの高揚。滝沢さんには何が面白いのか全然わからなくても、範子たちの中だけで通じる面白いことがある。高校の頃はくだらない遊びをたくさんした。今考えたら何が面白かったのかわからないけれど、それでも面白かった。
 そんな、覚えのある気持ちが、たくさん散りばめられていた。かつて「女の子」だった人に、あるいは「女の子」を脱しきれない女の子に、是非とも読んでほしい。


 『終点のあの子』『本屋さんのダイアナ』なども「女の子」を描いた話だときいたので読んでみようと思う。

夢を追う人たちはこんなにも眩しい 『ハケンアニメ!』

 

 辻村深月さんの作品が、すごく好きだ。
 思春期のこどもたちの揺れ動く心を描くのも、大人になりきれない大人を描くのも、どっちも。特に好きなのは『スロウハイツの神様』。何者かになろうとして頑張っているクリエイターの卵たちの、あるいは既にクリエイターになった者たちの物語。大好きだから何度も読み返している。読み返すたびに心があたたかくなり、同時にぼろぼろにもなる。
 もうこんな気持ちになるのは嫌だ、疲れてしまう――そう思ってずっと読まずにいたのが、『ハケンアニメ!』だった。

 

ハケンアニメ! (マガジンハウス文庫)

ハケンアニメ! (マガジンハウス文庫)

 

 

 夢を追ったり、夢のさなかにいる人たちの物語は、とても眩しい。苦労して、泣いたり怒ったりして、でも最後には笑えるように、やりたいことをやろうとしている人たちの物語は眩しい。その眩しさは、魅力とイコールで結ばれている。と同時に、残酷さともイコールで結ばれている。そんなふうに思うのは、私が夢を追わずに生きている人間だからだ。
 文章を書くことで食っていける人間になりたかった。だけど私はそれを仕事にしなかった。否、できなかった。狭き門だとわかっていて、それをくぐれる自信がなくて、何が何でもくぐると強く思えるほどの覚悟もなかった。私は自分の意思で、夢を諦めた。
 だから、夢を追う人たちを見ていると苦しくなる。自分がそこへ辿り着けなかったことの悔しさと不甲斐なさでいっぱいになる。辻村さんの描き出す登場人物たちはとても活き活きしていて、つらいことがあっても楽しそうで、それはまさしく私がなりたかった姿だ。もうこれ以上読みたくないと思う一方で、魅力的なキャラクターたちをもっと見ていたくて、どんどん読み進めてしまう。

 『ハケンアニメ!』は、アニメ業界を舞台にした物語だ。章ごとにスポットを当てる人物が異なり、様々な視点から業界で働く人々を描いている。第一章ではプロデューサー、第二章では監督、第三章ではアニメーター。
 単純に「お仕事小説」として読むこともできるし、そう読む人もいるのだろうけれど、私には夢を追う人たちの眩しさでいっぱいの物語にしか見えない。なので、その視点からの感想ばかり出てきてしまう。
 一番好きなキャラクターは、作中で伝説のアニメと呼ばれる『光のヨスガ』の監督・王子千晴だ。彼は、アニメ作品の監督でありながら「アニメは見た人のもの」と言う。作品を享受する側の私は、その言葉に救われる。作品を見て、もしかしてこの場面にはこんな意味がとか、このキャラクターの過去はこんなふうだったんじゃないかとか、明言されないところを考える自由を、王子千晴は視聴者に与える。きっと頭の中で物語をこねくり回している視聴者のなかから、また新しいクリエイターが生まれてくるのだろう。かつて王子千晴がそうだったように。

 この作品に出てくる人物はみんな、「ちゃんと」自分勝手だ。自分の行動を誰かのせいにしない。他者の言うことを聞かないときもあるけれど、そのときは自分の行動に自分で責任をもつ。その姿がとてもかっこいい。やりたいことだけやって上手くいかなければ誰かに責任を押し付けるような中途半端な自分勝手ではなく、ちゃんと自分勝手だ。登場人物たちが魅力的で活き活きしているのは、そういうところがあるからだろう。
 また、『スロウハイツの神様』に登場する小説家、チヨダ・コーキもこの作品にちょっと出てくる。相変わらずのコウちゃんの姿に「久しぶり」と言いたくなった。

 タイトルにある「ハケン」とは「覇権」、「覇権アニメ」とはそのシーズンの「一番」と呼ぶべきアニメのことで、作中ではふたつのアニメが覇権を争う。最終的にどちらに軍配があがるのかも是非見届けてほしい。

 夢を追う人たちの物語を読んでその眩しさが刺さり続ける自分のことは、嫌だし、嫌いだ。でも、刺さらなくなってしまった自分のことは、好きとか嫌いでもなくどうでもよくなってしまうかもしれない。私はまだ、私のことがどうでもよくない。だからこうして、食っていけないくせに文章を書きたくなってしまうんだろう。

戦うきみと、向き合うあなたに 『青の数学』

 

 その月に読んだ一冊をピックアップして長めの感想を書けたらいいなと思って、手始めに2月に読んだ本の中で一番気持ちが盛り上がった本について書きます。


『青の数学』王城夕紀

青の数学 (新潮文庫nex)

青の数学 (新潮文庫nex)

 

あらすじ(Amazonから引用)

 雪の日に出会った女子高生は、数学オリンピックを制した天才だった。その少女、京香凛の問いに、栢山は困惑する。「数学って、何?」―。若き数学者が集うネット上の決闘空間「E2」。全国トップ偕成高校の数学研究会「オイラー倶楽部」。ライバルと出会い、競う中で、栢山は香凛に対する答えを探す。ひたむきな想いを、身体に燻る熱を、数学へとぶつける少年少女たちを描く青春小説。

 

『青の数学2 ユークリッドエクスプローラー』王城夕紀

青の数学2: ユークリッド・エクスプローラー (新潮文庫nex)

青の数学2: ユークリッド・エクスプローラー (新潮文庫nex)

 

あらすじ(Amazonから引用)

 数学オリンピック出場者との夏合宿を終えた栢山は、自分を見失い始めていた。そんな彼の前に現れた偕成高校オイラー倶楽部・最後の1人、二宮。京香凛の数列がわかったと語る青年は、波乱を呼び寄せる。さらに、ネット上の数学決闘空間「E2」では多くの参加者が集う“アリーナ”の開催が迫っていた。ライバル達を前に栢山は…。数学に全てを賭ける少年少女を描く青春小説、第2弾。


 一冊をピックアップって言ったのに早速二冊になってしまったが、いわば上下巻のような関係で二冊読むことで話がすっきりするところまでいくので是非合わせて読んでほしい。

 

 

 高校の頃、私立文系を進路として選んで時点で数学とは縁が切れた。科目としては数ⅠAで終わっている(その他理系科目も理科総合しかやっていない)。小学生のときに初めて50点を取ったのが数学だった。テストで点を取るのが得意な私の(決して頭がいいわけではない)、人生で一番低い点数だったのでよく覚えている。「平均」の問題で、出だしを間違ったらその先ずっと間違うしかないような問題で、私は出だしを間違えてしまったのだった。今思い出してもお腹が痛くなる。
 つまり、数学は、苦手だ。単純な計算も苦手だし、文章題も問題を読みすぎて言葉の意味を考えて止まってしまう。圧倒的に向いていない。そんな私が『青の数学』を手に取ったのは、単純に友人が薦めてくれたからだ。ただ「おすすめの本」を訊いたではなく「私におすすめしたい本を教えて」といって教えてもらった本なので、私のめんどくさいところを知っている友人が薦めた本ならきっと面白いだろうと思っていた。数学かよ、とはちょっと思ったけど。
 実際、数学はわからなくても読める。知識として「リーマン予想」だとか「ユークリッド幾何学」といったものを聞いたことがあったので(たぶん前にWikipediaを読みまくっていたときに読んだ)、何も知識がないよりは読みやすかったかもしれない。Wikipedia読んでわかるのかって言われたらわからないけれど、「そういうものがある」ということはわかる。なので、数学全然わからないし、という人でも安心してお読みいただけます。以下、数学全然わからないし、という私の感想です。


 「E2(正しくは二乗)」という数学のサイトで、問題を解いたり、「決闘」をしたりすることができる。『青の数学』はそこに集う高校生たちの物語だ。「決闘」といっても熱いバトルものではないし、テンションも終始落ち着いている。しかし、冷めているわけではない。静かで激しい青春が、とくとくと流れるように語られる。脈のリズムみたいな小説だった。登場人物たちの、おとなしいけれど実は気性の荒そうなところが自分と似ていて、他人の気がしないなと思いながら読んだ。
 数学に魅せられて離れられずにいる人たちの、それぞれの向き合い方が描かれている。主人公の周りには、登山や薙刀や恋など、数学以外のものに向き合う人もいる。でもみんなとても真摯に丁寧に、自分のやりたいことと向き合っている。私は彼らの姿をとても美しいと思った。大切なのは、自分の意思で選んで自分の意思で向き合うことだ。彼らの姿は、文字のなかから、そう伝えているような気がした。
 なかでも私が好きだなと思ったのは、高校から始めた薙刀に励む柴崎という女の子の向き合い方。一度負けた相手と対峙することを「しんどい」という言葉を使いながら、それでもやる。「しんどい」からやる。誰にやれと言われたわけでもなく、やめることなんていつでもできるけれど、それでもやる。
 なんていうか、私の場合は薙刀ではなくて「○○のファン」であること、おたくであることに対して、「しんどい」と感じながらそれでもやる、という気持ちでいる。薙刀とおたくを同じ土俵に並べるなと思われたら申し訳ないのだけれど、おたくをやっていると娯楽として楽しめない部分が沢山出てくる。なぜか身も心もぼろぼろになることがあって、でもやりたいからやってるんだよな、と思った。自分の意思で向き合っている。
 向き合うということは、戦うということと似ている。そこに誰かが、あるいは何かがいるから「向き合う」ことができる。「戦う」ということもそうだろう。部活に打ち込むことも「戦う」のひとつのかたちだし、受験であったり、仕事であったり、趣味ということもあるだろう、何かに向き合っている人にこそ、是非読んでほしい。
 私はいま、戦っている。何をどう戦っているか、いまは言わない。他の誰にも意味のないことで、でも私にはとても意味のあることだ。そんなもの戦いでもなんでもなくてただの道楽だろうと言う人もいるとわかっていながら、それでも私はこれを「戦い」と呼ぶ。心の底を揺さぶられるように傷ついて、腹が立って、その傷も苛立ちも無駄にしたくなくて、私は戦うことにした。そんなときに読んだから、余計に「向き合う」「戦う」ということが印象に残った。

 物語としてもすごく面白いのに、文章がとてもきれいで、単純に「読む」という行為が楽しかった。「誰もいない明るい廊下には、春が沈殿していた。」なんて、美しすぎじゃないだろうか。でもこの一文が切り取りたい一瞬のことはなんとなくわかる。
 おそらく、作者は「切り取り方」が上手いのだと思う。物語の場面も、物語に必要な部分だけで構成されていて、無駄がない。たとえば、主人公・栢山の家族構成などは(というか家庭の様子すら)描かれていない。それは物語に必要ないからなのだろう。栢山含めほとんどの登場人物が高校生だが、授業や学校生活の子細は描かれていない。それも、物語に必要ないからだ。更にいうと、高校生たちが「決闘」で解く問題も小説の中には出てこない。必死になって取り組んで、解けたり解けなかったりする様子は描かれていても、どんな問題を解いているのかは読者にはわからないのだ。どんな問題を解いているかは必要ではなく、どんな気持ちで問題と向き合っているかが重要なのだろう。そういう切り取り方がすごく上手い。情景の一瞬を切り取ること、物語に必要なものだけを切り取ること、そういうのがすごく上手いのだと思う。
 切り取り方が上手いから、刺さる文章だらけで困った。すぐにメモを取り出して書き留めまくった。

「私も、負けて成長しているんですかね」
「向き合っているなら、成長しているんだよ」

挑んでいなければ、心が死ぬから。

 面白いもんをやっていくってのは、きっと、散々な目にあうってことなんだよ。

 そんな文章たちのなかで一番胸に刺さったのは「青春ってのは、諦めるまでの季節のことだ」という一文。私はなんとなく現在進行形で青春しているような気でいるのだけれど、この文章を見て納得がいった。私はまだあきらめていないのだ。何を、といわれたら一言では答えられないけれど、でも私は諦めていない。まだ私は何者でもなくて、何者かになろうとしてもがいている最中だ。「なれない」と諦めることも、「ならない」と蹴りをつけることもしないしできないまま、今も青春のさなかにいる。でもそれも悪くないなと思う。

 物語はひと段落ついてはいるけれど、まだまだ謎は残っているしこの先も続いていくのだろう。続刊が楽しみだ。