あなたの傷はどこですか 『不在』彩瀬まる

 なるべく同じ作家の作品が被らないように書くつもりだったのに、今ほかに書くことがないのとこの本があまりに良すぎたために書かずにはいられなかった。
 短編が多い彩瀬まるさん作品のなかでは久しぶりの長編。だからといって間延びしているということはなく、人間の心の機微が丁寧に描かれている。


あらすじ

 長らく疎遠だった父が、死んだ。「明日香を除く親族は屋敷に立ち入らないこと」。不可解な遺言に、娘の明日香は戸惑いを覚えたが、医師であった父が最期まで守っていた洋館を、兄に代わり受け継ぐことを決めた。25年ぶりに足を踏み入れた錦野医院には、自分の知らない父の痕跡が鏤められていた。恋人の冬馬と共に家財道具の処分を始めた明日香だったが、整理が進むに連れ、漫画家の仕事がぎくしゃくし始め、さらに俳優である冬馬との間にもすれ違いが生じるようになる。次々現れる奇妙な遺物に翻弄される明日香の目の前に、父と自分の娘と暮らしていたという女・妃美子が現れて――。愛情のなくなった家族や恋人、その次に訪れる関係性とは。気鋭の著者が、愛による呪縛と、愛に囚われない生き方とを探る。喪失と再生、野心的長篇小説! (KADOKAWA 不在 彩瀬 まる:文芸書 | KADOKAWA より引用)

 

不在

不在

 

 
 
 読んでいて、主人公に対して「そんなふうに思ったら上手くいかないよ」とはらはらする場面がいくつも出てくる。一緒に暮らしている年下の恋人・冬馬(劇団に所属していて演劇に集中するためバイトをやめた。バイトをやめたことに対しては明日香も了承している)に対して、飲みに行くなどの彼の行動をよく思わないシーンがある。彼女の思ったことを要約すると、「私がお金を出して養っているのに、養われている身分でなぜそんなことができるのか」という感じだ。それに、彼が作った料理に対して、濃くて雑な味付けについても自分が好きな味ではないが若い彼にはこういうものが合うのだと思って我慢している。そういった気持ちは次第に「私は彼に気を遣っているのに、彼は私になんの見返りもよこさない」と感じるようになる。
 見ていて苦しかった。多分、私は母からそう思われていただろうから。少なくとも、私はそう感じていた。詳しくは書きたくないが、母が「あなたのために」と取っていた行動に苦しめられることがあった。きっとあれは、母の私に対する気遣いの行動だったのだろう。でも、私にとっては自分の支配下に私を置こうとしているようにさえ思えた。私のために我慢しなくていいと告げたつもりが、母を怒らせてしまった。それからは諦めて、なるべく従うように行動していた。
 冬馬の感じた息苦しさは、私が家にいづらかった気持ちと似ていると思う。冬馬は明日香の家を出る。私も実家を出た。冬馬よりはだいぶ穏やかな、結婚というやりかたで。
 結婚して、夫と二人で暮らすようになり、今までやってこなかった家事に苦戦しながらもどうにかやっていて、ふと私も「私は夫に気を遣っているのに、夫はしてくれない」と思ったことがあった。あれほど嫌だと思っていたのと同じ思考に陥っていたことに気付いて、自分のことが嫌になった。勝手に相手の気持ちを先回りして「こうすれば喜ぶはずだ」とか「あの人のためになるはずだ」みたいに思うのを意識的に避けることで、そうした気持ちは起こらなくなった。けれど、思ってしまったことが怖かった。いつか私も、かつて私が苦しんだみたいに誰かを苦しめるのではないかと、そう感じてしまっていた。

 『不在』は、そうした気持ちを断ち切る物語だ。私は私であり、他の誰でもない。されてきたことを繰り返すとは限らない。そうじゃない道だってある。少なくとも、私は自分がされてきた嫌なことを「嫌だ」と感じているし、繰り返さないようにしたいと思っている。その気持ちがあるだけで随分違うような気がする。

 家族って難しい。実家を出て、母がしてくれていたことのありがたさや大変さもわかった。だからといって自分が感じてきた息苦しさをなかったことにすることはできない。でも、私にしていたことが愛に端を発するものではないとも思わない。それを上手く「愛」と受け止めることができなかったか、あるいはその「愛」そのものが私にとっては合わないものだったのかもしれない。それも否定はできない。私は確かに、愛されて育った。

 前回の記事でも「彩瀬まるさんの物語は傷を傷だと認識させる」と書いた。今回も、読みながら私のなかにある傷を意識せざるをえなかった。でも、傷を傷だと認識したからこそできることが、あると思う。苦しんできた人たちに寄り添う、そんな物語。そばに寄り添う何かがあるとないでは大きく違う。寄り添ってくれるだけでいい。その先は、読んだ人が決めることだ。


「こんなに好きときらいに絡まって苦しいなんて、特別なことだよ」

 家族ってきっとそういうものなんだと思う。