いいじゃん、別に。『ウチらは悪くないのです。』阿川せんり

 主な登場人物は、美人だけどいろいろ無頓着な「あさくら」と小説家志望の「うえぴ」。この二人が織りなす北海道の大学生ライフ。だいたいスタバでだらだらと喋っている。

 うえぴは文芸サークルに所属し、小説家になりたくて小説を書いている。投稿も視野に入れ長編執筆に乗り出すつもりだ。あさくらはだらだらしながら日々を過ごしている。そんなあさくらを見かねて、あさくらの周りの人々(主に「さわみー」)はあさくらをサークルに入れようとしたり彼氏を作ろうとしたり身なりに気を遣わせようとしたりバイトを勧めてきたりする。あさくらはあさくらなりにそれらに対して頑張ってみたりもするが……というのが大体のあらすじ。

 何か大きな事件が起きるわけではないけれど、文章のテンションが比較的高いので面白く読める。派手な物語を期待する人には合わないかもしれないけれど、日常に近いところの高度で展開する話を求める人にはオススメかも。

 

ウチらは悪くないのです。

ウチらは悪くないのです。

 

 

・二人の関係性

 女同士の友情はねちっこくて裏があって……的なテンプレートは聞き飽きた。阿川せんりさんの書く女の子たちの関係性は、そんなテンプレートには当てはまらない。アンソロジー『美女と竹林』の女子カップルたちはイチャイチャだし、『行きたくない』の養護教諭と生徒はなんとも名付けようのない関係性だ。

 うえぴとあさくらの関係性は、割とドライだ。仲は良いけど、踏み込み過ぎないというか。こういう関係性、全然ある。全然こういう女子いるし、こういう関係性の女子たちもいる。そんな「あるある」に近い関係性が、なんの注釈もなしにさらっと書かれていることが、なんだかいいなと思う。小説を読んでいると、たまに「さすがにこういう関係性は誇張かな」と思うものもある。小説はフィクションだし、リアリティを求めているわけではないので気にせず読むけれど、そこに引っかかりを覚えない小説もあるんだなぁと新鮮に感じた。(でもきっとこういう関係性に引っかかりを感じる人もいるだろうと思う。それは生きてきた環境の違いというやつだ。私は割とうえぴとあさくらみたいな関係性のなかで生きてきたと思う)

 今のところ、うえぴとあさくらは友達として仲良くやっている関係性だけれど、もしかしたらこの先うえぴが誰かと大恋愛することだってあるかもしれないし、あさくらがバイトに目覚める可能性だってある。けどそんなことはぶっちゃけ大した問題ではない。大切なのは、今のこの二人が、「ウチらの友情は永遠だよね」ってわざわざ言葉にしなくても(ていうか二人ともそういうのガラじゃないから絶対しないと思う)、当たり前みたいに確信しているってことだと思う。そういう「永遠」って確かにあったなぁと思ってなんだか懐かしくなった。

 

 

・タイトルの話

 このタイトル、『ウチらは悪くないのです。』は、一見すると「悪くない」と開き直っているようにも見える。何かをしでかして自分たちは悪くない、悪いことはしていないと言っているような。しかし実はそうではないと、読んでいくうちに気づく。

 開き直るとか、そういう意味じゃない。この「悪くない」は、「きみたちの人生、そんなんじゃよくないよ」「もっとこうしなよ」と言われることに対しての、「ウチら(の人生/生き方)は悪くないのです。」だ。控えめだけど、確かな肯定の表現。

 あさくらは、周囲からさまざまな干渉を受ける。同じ講義をとっていたさわみーのせいであさくらに対して悪い感情は抱いていない「にさか君」と付き合うこととなり、しかしそのにさか君はエネルギッシュに生きていて、日々だらだらしているあさくらとは話が合わない。

 エネルギッシュに生きることが、やること・やりたいことに満ちているだけが、「いい人生」なのだろうか。自分が「いい」と思えたら、それが一番いいんじゃないのか。私が「いい」と思うことは、誰かにとっては「いい」とは思えないことかもしれないのに、それを押し付けるのはどうなんだろう。たとえば私は小説が好きだから日々読んでいるけれど、人によっては小説なんて読んでも時間の無駄だと思う人もいるだろう。そんな人に小説読みなよって言ってもしんどいだけだし、そんな人から小説読んでも無駄だよって言われても私も納得できない。お互い、それぞれの「いい」ものを選んでいけばいいよねって思う。

 

 私も、私のことは悪くないなって思う。

 PMSが凄まじくて生理前の2週間は圧倒的不調で起き上がることすらできないこともあるし、生理が来たら1日は休まないと体が動かないし、メンタルは常に不安定だし、いい仕事につけてお金が稼げてるわけでもないし、そもそも仕事に対してギラギラしたやる気があるわけでもないし、美人に生まれたわけでもないし、何かの才能に恵まれたわけでもない。けど、悪くない。

 つい先日、自分以外の生き方はゴリゴリに否定していく(心の中で思うだけでなく言葉に出していく)タイプの人と話す機会があった。その人の話を聞く限り、私の生き方なんてクズとかゴミなんだろうな〜って感じでちょっとへこんだけど、そのタイミングでこの本を読んで、私は私の生き方を悪いとは思ってないんだよなって思った。じゃあいいじゃん、別に。誰が何を言ったって、ねぇ?

 私は私の、悪くない人生を生きていくよ。

「小説」を読むことの面白さ 『64』横山秀夫

 私はミステリが好きだが、警察に焦点をあてた小説はあまり読んでこなかった。理由は単純で、組織の仕組みがよくわからないからだ。会社に勤めて6年くらい経つが、どういう肩書がどういう序列で偉いのか未だによくわかっていない。会社に勤める前はもっとわからなかったし、ただの会社ですらこれなのだから、警察なんてわかるわけがないだろうと思っていた。

 が、それをひっくり返すのが「小説」だ。

 わざわざカッコ書きで「小説」というのには意味がある。いま私がいう「小説」とは、物語の面白さをそこに含まないという意味での狭義の「小説」だ。小説の楽しみとは、「物語」の楽しみ(=あらすじの面白さ、ストーリーとしての面白さ)と「小説」の楽しみ(=文章特融の面白さ、文体・書き方の工夫など、一文に限らずある程度のまとまりをもった文章それ自体がもつ面白さ)があわさったものだと私は捉えていて、この『64』にはそのどちらもあるし、とりわけ「小説」の面白さがガンガン来ちゃってやばいのでそのやばさを(この作品が面白いことなんて世間の評価からしても百も承知だろうが)個人的に書き記しておこう、ということです。

 

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

 
64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

64(ロクヨン) 下 (文春文庫)

 

 

 

あらすじ(Amazonより引用)

 元刑事で一人娘が失踪中のD県警広報官・三上義信。記者クラブと匿名問題で揉める中、“昭和64年”に起きたD県警史上最悪の翔子ちゃん誘拐殺人事件への警察庁長官視察が決定する。だが被害者遺族からは拒絶され、刑事部からは猛反発をくらう。組織と個人の相克を息詰まる緊張感で描き、ミステリ界を席巻した著者の渾身作。

 先ほども書いたが、私は警察という組織の仕組みには明るくない。読み始めた当初も、主人公・三上がどういった立ち位置にいるのか手探りで掴んでいくような状態だった。弊社には「広報」というものが独立して存在しているわけではない(弊社、誰が広報やってんだ。わからん)ので、「広報」というものが余計にイメージしづらかったこともある。しかし、読み進めて割とすぐに警察内部からはあまり良く扱われるポジションではないことが見えてくる。かといってマスコミと良好なわけでもない。板挟みのような状態なのだとわかってくる。

 次に、警察内部の力関係。そこそこの数の登場人物がいるので、一体誰が偉いのか最初はわかりづらい。しかしこれも読んでいくと、今さっき三上が敬語を使っていた人物が別の人物に敬語を使い、時として頭を下げる場面もあり、読み進めるうちに自然と人間関係が把握できるようになっている。説明に徹するような調子で書かれているわけではないのに、自然と理解できる。すごくない?これは私の理解力云々の問題ではなく、作者の頭がいいのだ。

 こういう「読んでいたら人間関係・力関係が自然とわかる」というのはまさしく「小説」の面白さのひとつだ。私がしていることといえば、ただ文字を追っていることだけなのだが、書かれた世界がその行為によって開かれていくのがわかる(実際は作者に誘導されていることのほうが多い)。それってすごく楽しくない?私は楽しい。

 この作品の「小説」の面白さはそれだけではない。私はこの作品のことを下巻の残り1/3くらいまで誤解していた。大きな事件が起こるというよりは、警察内部について(広報という立ち位置と、刑事部との関係について)を描いた作品だと思っていた。実際、派手な事件が起きるというよりは警察内部について主人公が葛藤するような描写が多く、どちらかといえば地味といえよう。そういった地味な小説が(しかし「小説」としてとても面白いので)評価されているのか、と不思議に思う気持ちと嬉しく思う気持ちがあった。が、残る1/3ほどにさしかかったところで物語が急転する。急転するのだが、その急転の仕方もまた「小説」の面白さに満ちている。確かに急転しているのに、それは一見無関係にも思えた今までの描写の積み重ねで出来上がっているのである。あれもこれも全部。全部だ。私が今まで読んできたものが、ここに繋がっている。それもまた「小説」の面白さだ。

 終盤には人間関係もだいぶわかっていて、三上が選んだものがどういう意味を持つのか、心に重たく響く。広報室の人たちの様子を見ていると、仕事に情熱を燃やさないタイプの人間でも熱くなってくる。読み終わって、面白さでなんだか元気になってしまったりした。緊張感のある描写が続くが、読んでいて疲れることもないし読後感も決して悪くない。隙のない小説、という感じだ。

 

 無駄な描写がなく、盛り上がりの運び方も鋭く、しかしそれまでの地味に思える描写も決して退屈ではない。で、「物語」も面白い。そんなの、あんまりにも最高だ。

 「物語」の面白さは私が語っても伝わるかもしれない。しかし「小説」の面白さは読むことでしか伝わらない。なので、まぁ、読んで。それしか言えない。

 

 こんな面白い本を今まで読んでいなかったということは、きっと世の中には私が知らない面白い本が沢山ある。できることなら全部読みたいけれど、それが叶わないならできるだけ多く読みたいなぁ。

足元を風船だらけにする 『3652』伊坂幸太郎

 あまりにも好きすぎてエッセイ集に手を出せなかった。この作家の、人間としての一面を垣間見てしまうことで、作品を読むときに変な先入観をもってしまったりはしないかと、自分に懐疑的だったからだ。ほかの作家のエッセイを読もうとは思っても、この人だけは読めないかもな、と思っていた。

 だって好きすぎて読み返せない作品があるくらいなのだから。

 私は『砂漠』という小説が好きで好きで好きで好きでもう本当にめちゃくちゃ好きなのだが、めちゃくちゃ好きすぎて今読み返しても私だって歳を取っていてもう大学生じゃないし前に読んだときの好きという気持ちが薄っぺらく思えてしまったらどうしようと思って、それが怖くて読み返せない。かつて面白いと思った作品が面白くなかったらそれは作品のせいではなく、読み手である私が変わってしまったせいだと思う。伊坂さんの本に限らず、ほとんどの本に対してそういう気持ちでいる。

 『砂漠』と同じくらいにヤベェ読書体験をしたなと思たのが『夜の国のクーパー』や『チルドレン』だったが、それらもまた同様に読み返せずにいる。『重力ピエロ』だけは自分が変わってしまう前に頻繁に読み返しては「私はまだ大丈夫だ(何が大丈夫なのかはわからないが)」と確認しているけれど、それ以外はなかなか触れられない。最近は伊坂さんの作品を読み返そう(あるいは読んでいなかったものを読もう)キャンペーンを展開しているが、まだ手を付けられていない作品も多い。

 前置きが長くなったが、そのくらいに、伊坂幸太郎という作家は私にとっては特別な作家なのだ。


 でもまぁ、いろいろあって(自分の中では結構大きなきっかけがあって)、エッセイを読んでみることにした。

 

 

3652: 伊坂幸太郎エッセイ集 (新潮文庫)

3652: 伊坂幸太郎エッセイ集 (新潮文庫)

 

 


 『3652』はいろんな媒体で書かれた10年分のエッセイをまとめた一冊である。作家デビューしてからの10年間に書かれた文章たち。どれも朴訥とした語り口だし、ほっこりする内容のものが多い。それに、伊坂さん自身による注釈がついており、エッセイとして書かれた文章はもとより注釈も面白い。注釈には伊坂さんの小説に出てきそうなツッコミが書かれている。伊坂さんが書いているのだから当たり前かもしれないが、私はそれに感嘆してしまった。おぉ、伊坂さんみたいな文章の注釈がついてると思ったら、伊坂幸太郎が書いてるぞ、みたいな。

 ページをめくるたび、私の「特別」に触れているのだとわかる。そんな読書は滅多にないな、と思いながら読んだ。

 


 やたらキャラの濃いお父さんの話は、なんとなく『ゴールデンスランバー』の主人公のお父さんの話を思い出した。奥様の話も結構出てくるが、奥様のことをとても好きなんだろうなぁと文章の端々から伝わってきて思わず微笑んでしまった。毎年苦心しつつも続けているという「干支エッセイ」はだんだんしんどくなってきていることが伝わってきて笑ってしまう(ねずみ年のネタ探しとして奥様にディズニーランドに誘われて行ってみたものの普通に楽しかったがネタは見つからなかった、というくだりが最高だった)。ずっと好きだった作家さんにお会いした話や、斉藤和義さんとのつながりの話も、胸にじんわりと響いた。洋画はあまり見ないのでエッセイの中で触れられている映画のほとんどは見たことがないが、映画が好きなことがすごく伝わってきてなんだか嬉しくなった。好きな本についても書いてあった。打海文三さんの本はたぶん読んだことがないはず。紹介されていた『ぼくの愛したゴウスト』が面白そうだったから読んでみたい。

 そんなとりとめのない感想が、胸のうちにふんわり浮かんではそっと着地する。空気を入れた風船をふわっと放ったらゆっくり落ちてくる、あの感じだ。読み終わるころには、足元が風船だらけになっていた。この感覚はほかの作家ではなかなか得られるものではない。伊坂さんだからこそ、私の「特別」だからこそだ。

 剛速球を食らった気分になる本もある。優しく頭を撫でてもらった気分になる本もある。崖から突き落とされた気分になる本もある。伊坂さんの本は、小説に限らずエッセイもまた、足元を風船で埋め尽くすような気分になる。先日読んだ『ガソリン生活』もそうだったし、次に読み返す本でもきっとそう思うのだろう。

 


 作家になったきっかけの話もいくつか書かれていたが、そういうものを読むたびに私ではなれないなぁと胃が重くなる。若干げろげろした気分になりながらも、伊坂さんが作家として世に出てくれてありがとうと(どこから目線だよって感じだけど)思う。

 じゃあ私は何になろう、と考えた。このエッセイを読んでいて、いまだ何者でもない私はいったい何者になれるだろうかと考えてしまった。別にそんなことは一言も書かれていないのだけれど、作家になってからの10年間のエッセイというものを読んだら、じゃあ私は何になれるだろうかと、ふと頭に浮かんできた。

 「よき読者」でありたい、とは思っている。作家になるのは難しいし、今の年齢で未経験で出版業界に入るのも現実的ではない。それなら、読むほうを極められたら、という気持ちだ。

 極めるといったってどうやればいいのかわからない。本の世界に没頭して楽しむこと、書かれていることを自分に引き寄せて考えること、登場人物たちの未来を願うこと、そして「こんな面白い本があるよ」と伝えること。そんなことをやっていけたら、それが私の思う「よき読者」なのではないかな。そんなふんわりした感想もまた、風船のように私の足元に着地する。

「誰かが何かに抱く愛おしい想い」が愛おしい 『ネオカル日和』辻村深月

 作者と作品は切り離して考える、という考え方がある。切り離して考えるのであれば、作者のことはなるべく知らないほうがいい。そう思って、頭の固い私は長いこと「小説家のエッセイ」を読まずにいた。
 だが、加藤シゲアキという「最初からその人となりをある程度把握している小説家」に出会った。そして彼が書くエッセイに関しては嬉々として読んでいることに気付き、まぁ作者は作者だし作品は作品だけど、その作者じゃないと生まれない作品ってあるもんね、考え方を知りたいって思っちゃうこともあるよね、と思って好きな小説家のエッセイも読んでみよう、というキャンペーンを個人的に展開している。
 まだ数冊しか読めていないが、どれも小説同様に面白かった。森見登美彦さんの『美女と竹林』はエッセイなのに三人称で書かれていて(もうこの時点で面白くて引き込まれてしまう)、どこからが登美彦氏の妄想なのかよくわからないような文章で狐狸に化かされている感もあって楽しかった。森博嗣さんの『つぼやきのテリーヌ』は、なるほどこういった考え方の人からあの作品たちが生まれるんだ……と納得した。どちらもタイプが大きく異なるエッセイだが、どちらも楽しめた。
 で。今回取り上げるのは辻村深月さんの『ネオカル日和』。

 

 

ネオカル日和 (講談社文庫)

ネオカル日和 (講談社文庫)

 

 

(Amazonより引用)

小学生の頃、図書室で出会った本の記憶。夏休み、訪れた田舎で出会った古い土蔵。放課後、友達と買い食いした駄菓子屋。すべてはこの世の物語を紡ぐために。日本の新文化を徹底取材したルポを中心に著者が本当に好きな物だけを詰め込んだエッセイ集。掌編&短編小説4本も特別収録する贅沢すぎる玉手箱

 

 電車の中で読んでいて、何度も泣きそうになった。さすがに電車の中なのでこらえたが、家だったらぼろぼろ泣いていたと思う。何がそんなに胸を打ったのかというと、辻村さんの『ドラえもん』および藤子作品への想いだ。
 私は特にドラえもんに対する思い入れはないというか、世間一般の人々がドラえもんに触れてきたように、子供の頃は毎週アニメを見て春には映画に行って、という小学生時代を送った。それ以降は特に触れてこなかった。なので、ドラえもんのなんたるかをわかっていて辻村さんの想いに泣かされているのではない。「辻村さんがドラえもんに抱く愛おしい想い」にぐっときてしまったのだ。
 文章の端々から、この人は『ドラえもん』を含む藤子作品に触れて育ち、幾度となく救われ、大事に抱えながらこの文章を書いたその日までを生きてきたのだろうと感じられる。そしてこの文章を書いたあとも、そうやって愛していくのだろう、と。
 本の中に語られた言葉は一部分でしかなく、きっとこの何倍もその愛しさを語ることができるのだろう。どれほど救われてきたか。沢山のエピソードがあるに違いない。辻村さんが生きてきた時間のあちこちにドラえもんがいて、どの思い出もきらきらと輝く特別な宝物なのだろうと、想像だけれど確信している。その大切な宝物を、少し見せてもらったような気分だ。

 誰かがそれを好きだという想いは、どうしてこんなにも胸を打つのか。その特別な想いが、その人だけが持ちうる唯一無二のものだからかもしれない。けれど同時に、私にも同じように特別で唯一無二のものがある。そういう「特別で唯一無二」は、ありふれているのだ。ありふれているからといってその特別性が失われるわけではない。相対的に見ればありふれていても、絶対的な価値は失われない。
 誰かが何かに心を震わされたという事実に心を震わされる。共鳴、に似ているのかもしれない。

 ポルノグラフィティのライブビューイングのあれこれを思い出したとき、彼らの書く歌詞について考えたとき、どうしようもなく泣きそうになる。好きで好きで仕方なくて、私が生きてきた日々のそこかしこに彼らの言葉や楽曲があって、何度も助けてもらったし一緒に生きてきた。そういう記憶が、私を支えている。語りつくせないほど大きな想いがある。
 そんなふうに愛せるものがあることって幸せなことだなぁと改めて気づかせてくれるエッセイだった。何か特別に好きなものがある人はきっと、辻村さんが語るドラえもんや藤子作品への想いに心を震わすことでしょう。

特別じゃないわたしと、特別じゃない食事を 『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』島本理生

 ピース又吉直樹さん、NEWS加藤シゲアキさんの番組「タイプライターズ」へのゲスト出演をきっかけに、島本理生さんの本を読み始めた。まだ3冊しか読めていないけれど、すごくいいなと思ったので感想を書いておこうと思う。

 

 

わたしたちは銀のフォークと薬を手にして

わたしたちは銀のフォークと薬を手にして

 

 

あらすじ(Amazonより)

「どこへ行きましょうか」 「どこへ行くか」
30歳の私は、あの日、夕方の春の海辺で、どこへ行けるか分からない恋を始めた。限られた時間の中にいる男女の行く末を描いた、渾身の恋愛小説。
年上のエンジニア・椎名さんと仕事先で出会った知世。美味しいものを一緒に食べる関係から、少しずつ距離が近くなっていったある日、椎名さんは衝撃の告白をするが……。

 

 


 「恋愛」とか「結婚」とか、言葉にするととても簡単に聞こえるし簡単に見える。4つの音、2文字の漢字。それだけだ。日常で使われる頻度や目にする機会も多い。友達との会話でも恋愛の話題は出てくるし、電車に乗れば広告が結婚を薦めてくるし、親戚やときには親も「いい人はいないのか」と尋ねてくることもある。でも、本当はそんなに簡単なものではないんじゃないかと思う。
 この本に登場するのは、主に30歳になったあたりの女性たちだ。恋愛や結婚について悩んで、どうやって生きていくかを模索している。きっと、30歳(アラサー)というのは、仕事とか恋愛とか結婚とかそういうことの分岐点なんじゃないかと思う。体の機能だって20代になりたての頃とは変わってくるから、今後どうしていくかを考えるひとつのきっかけになるんだろう。

 薄々分かっていた。年収じゃない。顔でもない。いや、外見はちょっと大事だけど、それよりも必要なもの。 それはなに一つ特別じゃないわたしと向き合ってくれる関心と愛情。

 作中で、結婚前提の彼女と同棲している男と浮気している女性が、男との関係を断ち切りたくて結婚相談所に入会する話がある。そこで出てきたのが上に引用した部分だ。
 自分も相手もきっと特別じゃない。それでも向き合っていこうと思えるような関心と愛情を持てるかどうかが、その先へつながっていくのかな。

 

 この物語には美味しいごはんが沢山出てくる。
 決して私の好きなものばかりではないのに、文章で読むと美味しそうだなぁと感じられるから不思議だ。たとえば、私は生魚な得意ではないので作中に出てくるしらす丼は食欲をそそられない。なのに、主人公たちが食べている場面を読んでいると、すごく美味しそうに思える。お酒だって全然飲めないし美味しいと思うこともほとんどないのに、物語の中に出てくるお酒は美味しそうだ。そうやって架空の美味しさを楽しめるのも、小説の醍醐味かもしれない。
 そういった「小説」の楽しさもあるうえで、物語の深みや読み手に訴えかける何かがしっかりとある。とてもバランスのよい小説だと思う。

 私は一人での食事については99%「いかに安く済ませるか」しか考えていない。美味しいものを食べよう、というのはそこまで重要ではない。だって一人だし。私にとっては、食事とは「一緒に食べる人と美味しかった思い出を共有するもの」であって、一人で食べるならそれは実現不可能となるので正直なんでもよくなってしまう。そんなふうに思う人間なので、島本さんの描く食事風景はとてもすてきだな、と思う。こんなふうに、美味しいものを美味しく食べて、楽しく話したい。話さなくても、そこにやわらかい空気が漂っていたらいい。
 島本さんの『リトル・バイ・リトル』にも食事風景が何度か出てきた。まだ若い(未成年の)2人の話なので、高いレストランで食べるわけではないし、どこにでもありそうなものを食べている。会話がすごく弾んでいるわけでもない。でも、いい雰囲気なんだなと伝わってくる。そういう食事もいいなと思う。
 一日に二食くらい食べるとして、一年間で365×2=730回食事をすることになる。それがこの先も続いていく。一体今まで何回の食事をしてきて、これから何回の食事をするんだろう。毎回毎回が特別なわけじゃないし、そもそも食事をするという行為は特別なことではない。でも、特別じゃないことを誰かと一緒に楽しめるのって、きっと貴重なことだと思う。

 

 特別じゃないわたしと、特別じゃないあなたが出会う。特別じゃないわたしと、特別じゃないあなたが、特別じゃない食事を楽しむ。それだけのことなのに、きっとありふれたことなのに、全然簡単じゃないのはどうしてなんだろう。

あなたの傷はどこですか 『不在』彩瀬まる

 なるべく同じ作家の作品が被らないように書くつもりだったのに、今ほかに書くことがないのとこの本があまりに良すぎたために書かずにはいられなかった。
 短編が多い彩瀬まるさん作品のなかでは久しぶりの長編。だからといって間延びしているということはなく、人間の心の機微が丁寧に描かれている。


あらすじ

 長らく疎遠だった父が、死んだ。「明日香を除く親族は屋敷に立ち入らないこと」。不可解な遺言に、娘の明日香は戸惑いを覚えたが、医師であった父が最期まで守っていた洋館を、兄に代わり受け継ぐことを決めた。25年ぶりに足を踏み入れた錦野医院には、自分の知らない父の痕跡が鏤められていた。恋人の冬馬と共に家財道具の処分を始めた明日香だったが、整理が進むに連れ、漫画家の仕事がぎくしゃくし始め、さらに俳優である冬馬との間にもすれ違いが生じるようになる。次々現れる奇妙な遺物に翻弄される明日香の目の前に、父と自分の娘と暮らしていたという女・妃美子が現れて――。愛情のなくなった家族や恋人、その次に訪れる関係性とは。気鋭の著者が、愛による呪縛と、愛に囚われない生き方とを探る。喪失と再生、野心的長篇小説! (KADOKAWA 不在 彩瀬 まる:文芸書 | KADOKAWA より引用)

 

不在

不在

 

 
 
 読んでいて、主人公に対して「そんなふうに思ったら上手くいかないよ」とはらはらする場面がいくつも出てくる。一緒に暮らしている年下の恋人・冬馬(劇団に所属していて演劇に集中するためバイトをやめた。バイトをやめたことに対しては明日香も了承している)に対して、飲みに行くなどの彼の行動をよく思わないシーンがある。彼女の思ったことを要約すると、「私がお金を出して養っているのに、養われている身分でなぜそんなことができるのか」という感じだ。それに、彼が作った料理に対して、濃くて雑な味付けについても自分が好きな味ではないが若い彼にはこういうものが合うのだと思って我慢している。そういった気持ちは次第に「私は彼に気を遣っているのに、彼は私になんの見返りもよこさない」と感じるようになる。
 見ていて苦しかった。多分、私は母からそう思われていただろうから。少なくとも、私はそう感じていた。詳しくは書きたくないが、母が「あなたのために」と取っていた行動に苦しめられることがあった。きっとあれは、母の私に対する気遣いの行動だったのだろう。でも、私にとっては自分の支配下に私を置こうとしているようにさえ思えた。私のために我慢しなくていいと告げたつもりが、母を怒らせてしまった。それからは諦めて、なるべく従うように行動していた。
 冬馬の感じた息苦しさは、私が家にいづらかった気持ちと似ていると思う。冬馬は明日香の家を出る。私も実家を出た。冬馬よりはだいぶ穏やかな、結婚というやりかたで。
 結婚して、夫と二人で暮らすようになり、今までやってこなかった家事に苦戦しながらもどうにかやっていて、ふと私も「私は夫に気を遣っているのに、夫はしてくれない」と思ったことがあった。あれほど嫌だと思っていたのと同じ思考に陥っていたことに気付いて、自分のことが嫌になった。勝手に相手の気持ちを先回りして「こうすれば喜ぶはずだ」とか「あの人のためになるはずだ」みたいに思うのを意識的に避けることで、そうした気持ちは起こらなくなった。けれど、思ってしまったことが怖かった。いつか私も、かつて私が苦しんだみたいに誰かを苦しめるのではないかと、そう感じてしまっていた。

 『不在』は、そうした気持ちを断ち切る物語だ。私は私であり、他の誰でもない。されてきたことを繰り返すとは限らない。そうじゃない道だってある。少なくとも、私は自分がされてきた嫌なことを「嫌だ」と感じているし、繰り返さないようにしたいと思っている。その気持ちがあるだけで随分違うような気がする。

 家族って難しい。実家を出て、母がしてくれていたことのありがたさや大変さもわかった。だからといって自分が感じてきた息苦しさをなかったことにすることはできない。でも、私にしていたことが愛に端を発するものではないとも思わない。それを上手く「愛」と受け止めることができなかったか、あるいはその「愛」そのものが私にとっては合わないものだったのかもしれない。それも否定はできない。私は確かに、愛されて育った。

 前回の記事でも「彩瀬まるさんの物語は傷を傷だと認識させる」と書いた。今回も、読みながら私のなかにある傷を意識せざるをえなかった。でも、傷を傷だと認識したからこそできることが、あると思う。苦しんできた人たちに寄り添う、そんな物語。そばに寄り添う何かがあるとないでは大きく違う。寄り添ってくれるだけでいい。その先は、読んだ人が決めることだ。


「こんなに好きときらいに絡まって苦しいなんて、特別なことだよ」

 家族ってきっとそういうものなんだと思う。

グロテスクで美しい愛 『くちなし』彩瀬まる

 『くちなし』は幻想的な短編が多く収められている。体の一部を外して誰かに渡すことができたり、人間(主に女性)が怪物に変身してしまったりする。どれも「愛」についての物語だ。
 愛ってきっと、きれいなだけではない。確かにきれいかもしれないけれど、それは愛のもつ一面にすぎない。それがすべてではない。グロテスクで、醜くて、ときには悪臭すら放ちそうなもの、それもまた愛だ。
 表題作「くちなし」は、主人公の女性と彼女の元不倫相手の妻を中心に描かれている。それだけだったらよくある話かもしれないけれど、この物語の世界では体のパーツを取り外せることが前提となっている。義肢の技術も発達しているし、手足を外したとて血が出たりひどい痛みが伴ったりするわけでもないらしい。さらに、本人から離れた四肢はなんらかの意思をもって動いたりもする。この異様な世界で、物語はすすむ。
 主人公は不倫していた男性から別れを切り出され、別れるかわりに腕がほしいと言う。そうして腕をもらってしばらくして、男性の妻がやってくる。彼女は夫の腕を返せという。そこで主人公は、男性の腕を返すかわりに妻の腕がほしいという。女性は腕を差し出し、代わりに夫の腕を持ち帰る。
 腕を外す描写もだが、主人公が腕と暮らしている描写が、気持ち悪い。だってそれはそのひと本人ではない。腕だけなのに。と思ったけれど、もしかしたらこの「くちなし」と決して遠くはないことを自分もしているのかもしれない、と思った。
 たとえば、アイドルを好きになること。それって、相手(=アイドル)のひとかけらを切り取って自分のものにして大事にしながら共に生活していると、言えてしまうのではないだろうか。なんなら、相手の同意なしに勝手に一部分を切り取っているようなものだから、この主人公よりもたちが悪いかもしれない。
 気持ち悪い行為だなと思う一方で、そうじゃない愛って存在するんだろうか、と思ってしまう。作中で妻は「夫は私のものであり、私は夫のもの」と主張する。それだって、全然、気持ち悪い。誰かを愛するということは、すなわちそういう気持ち悪いことであり、この気持ち悪さは避けられないものなのだろうか。
 「愛のスカート」「茄子とゴーヤ」はこの短編集のなかでは普通の世界の物語として書かれている。しかしどちらも上手く伝わらない愛が描かれていて、愛ってすごく独りよがりなものでもあるんだなと気付く。
 愛って、そういうものなんだと思う。美しいばかりではなくて、グロテスクだったり独りよがりだったりして、でもその一方で美しいことは確かで、そういうものなんだと思う。

 

くちなし

くちなし

 

 

 

 彩瀬まるさんの小説は、「痛い」。
 この『くちなし』に限らず、今まで読んだ本はどれも読みながら「痛い」と思った。とは言っても、彩瀬まるさんの作品に傷つけられているわけではない。作品たちが、心のやわらかな部分に残っている、私が無視し続けてきた傷を、それが傷であると意識させるのだ。ずっと目を向けずにいた傷が、彼女の本を読むと痛み出す。今まで無視してきた痛みが、もう無視できなくなる。本作は「愛」がテーマになっているので、誰かを愛する過程でできた傷を意識せざるを得なくなる。私はあまり恋愛をしてきたわけではないのでそこまで傷がないのかもしれない。様々な恋愛をしてきた人は、私よりもっと痛いのかもしれない。
 『眠れない夜は体を脱いで』は、身体にまつわる短編集で、身体に関する悩みがある(あった)人は今まで見て見ぬふりをしてきた傷に気が付いてしまうだろう。私は特にこの小説を読んで傷の痛みから目が逸らせなくなった。
 『神様のケーキを頬ばるまで』は、さまざまな挫折とそこから立ち直る力が描かれていて、ある意味普遍的な部分も多いので読んでいて自分の傷に気が付く人も多いのではないだろうか。
 『桜の下で待っている』は、家族にまつわる短編集。家族に対してなんらかの思いがある人は、読んでいて痛みを感じるかもしれない。
 そんなふうに、彩瀬まるさんの作品は傷を傷だと認識させる。ここに挙げた以外の作品も、どことなくそんな部分がある。
 私は、それが傷であるということを意識できただけで前進だと思う。痛いことは、決して悪いことばかりではない。後戻りができなくなる状態まで膿んでしまう前に、その傷が傷だと意識できたことは、きっと何か意味がある。
 治そうとしてみることだってできる。治らないかもしれない。治っても傷痕は残るかもしれない。そしたらそのときは、傷も傷痕も抱えていこうと思う。